以前に井川耕一郎さんからこんなリアクションを頂きました。嬉しかった。嬉しいから転記させていただきます。
「小出豊の『お城が見える』について。男は妻を虐待し、妻は子どもを虐待した。その結果、子どもは死亡。男は我が子の遺体を解体し、海に投げ捨てた----といった事件の概要が手短に語られたあと、男がDV加害者に対する暴力防止プログラムを受ける様子が描かれる。男は警官に連れられて大きな部屋に入る。すると、天井のスピーカーから医師が呼びかける。あなたが奥さんに暴力をふるうようになった経緯を再現して下さい、と。
男に対するプログラムの要求は事実の正確な再現であった。医師は男の些細な台詞についても、実際と同じように感情をこめて言うようにと命令する。また、男が「ちょっと休ませて下さい」と言うと、妻役の女性が「現実には休んだりせずに、奥さんを追いつめていったんでしょ!」とひどくいらだった口調で男に演じることを迫ってくる。
命令に従うしかないと諦めた男は、妻に見立てたマネキン人形を突き飛ばして、壁に叩きつけると、TVからAVケーブルを引き抜き、それで何度も鞭打つ。その横に立って悲鳴をあげる妻役の女性。医師が、このあと、どうしたか、と尋ねると、男は、妻にドアのところまで来るように言って、それからドアにはさんで痛めつけた、と答える。そして、その通りのことが再現される。男の手招きで、マネキンをかついでドアまでやって来る警官(このときのマネキンの頭部をとらえたカットが、まるでひとの手を借りずに歩いて移動しているように見えて恐い)。男がくりかえしマネキンにドアを叩きつけると、その音は施設内に大きく響きわたる......。
人形を相手にDVを再現しているだけなのに、生理的な痛みが伝わってくる映画である。それにしても、「再現を続けましょう」という医師の冷静な声を何度も聞いているうち、プログラムの本当の目的は何なのかという疑問がわきおこってくる。ひょっとしたら、このプログラムは暴力の再現に快楽を見出しているのではないか、と。いや、これは観客である私たちの問題なのかもしれない。『お城が見える』は、私たちの中にひそむ暴力を楽しみたいという欲望をはっきり意識させる映画だ。たった十分の短編ではあるが、密度の濃い危険な作品である。」(井川耕一郎)