沖島勲 X 高橋洋 対談 (3)_狂気文書_映画:『狂気の海』 | CineBunch

■ 沖島勲 X 高橋洋 対談 (3)

okishima1.jpg演出

高橋:沖島さんはシナリオを書くときにどういう風に俳優が台詞を言うのかトーンやリズムについて脚本の段階で決めていますか。

沖島:うん。僕はシナリオを書くときが勝負だね。そのときにカット割りとか一応頭の中で大まかに決めて、シナリオを書いています。

高橋:そのやり方だとホン読みだとか、リハーサルだとか、現場でいざ撮影という段階になって、俳優さんの台詞の発し方に違和感があったりしませんか。

沖島:ほとんどないですね。そういうことがあるのは、何十回に一回くらいです。
高橋:僕は脚本家として、他人のために脚本を書くことが多いので、今まで脚本を書くときには台詞をどういうトーンで言うかとか、その人物がどこを見て台詞を言うのか、相手の視線をはずすのか、全然違う中空を見て言うのかといったことを、自分の中で成立させないと駄目だったんです。つまり、実際に芝居=台詞として言えるのかどうか、納品チェックじゃないけど自分の身体を通してチェックしてから脚本を監督に渡す、と。台詞が芝居として成立するかどうか試す作業をすると必然的にトーンやリズムを考えざるをえなかったんです。ただ今回は自分が監督するので、初めてどういうトーンで話すか考えないで台詞を書いてみました。本当にこんなの俳優さんが言えるのかな、って恐怖と不安の中で一回やってみようと思ったんです。

沖島:それは俳優さんが勘のいい人でないと大変だよね。例えば『YYK論争』でも二日間くらいリハーサルをやったんだけれど、頼朝役の俳優さんが何を考えてこの演技をやっているのか分からないようなミスマッチな演技をしたんで、これはとにかく違いますよ、と彼に言ったんです。そしたら二日目にころっと演技を変えてきて、それがぴたっと合う。本読みで言えば『一万年、後....。』は母親が出てくるところだけを阿藤さんと洞口依子さんと二人で一回だけやらせた訳だけれど、洞口さんははっきりいって違うわけ。どう違うかというと、彼女はスクリーンに映るお母さんを幽霊の一種だと考えて、その背景を台詞の中に込めていたんですよ。すると凄く恐いお母さんになるんです(笑)。もちろん、(母親は既に死んでいるということが)背景にあるんだけど、表面に出てくるのは可愛い息子を思う気持ちや親として子を叱ったりするということなんです。ただ、本読みのときには何も洞口さんに言いませんでした。それで、本番の直前の5分か10分くらいの間に僕がその意図を説明したら、彼女も「分かりました」と言って、本番では淡々とお母さんの息子に対する日常的な振る舞い方で演じてくれました。ここが勘の悪い人だとどうしようもないところはあるね。『YYK論争』ではプロデューサー役の役者にゴダールの『軽蔑』を事前に見てもらったんです。あのジャック・パランスのどこか狂っている感じが出ていれば表面はどんな演じ方をしても構わないからってことで。それで、撮影前にやらせてみたらテストの度に違ったパターンで演技するの。これでは撮りようがないってことで、芝居を決めろ、と皆の前で怒鳴りました、彼には悪いけど。時にはそういうこともありました。

高橋:あ、僕も長宗我部(陽子)さんには、『ファイナル・オプション』のジュディ・デイビスを観せたな。そしたら同じようには出来ないけど、ノリは分かりましたと言われて。僕の場合はメインの三人(中原、田口、長宗我部)のキャスティングが望んだ通りにできたんで、幸運でしたね。前もって台詞のトーンを決めなかったのは、以前に万田邦敏さんの自主映画に役者で出演することになって、万田さんが書いたシナリオを読んだら、これはいつもと違うって明らかに分かるんですよ。これって自分の身体を通して書いていない台詞だって。万田さんに「今回いつもと違いますよね」と言ったら「あ、分かった?今回は内容本位でリズムを決めずに書きました」って言うんですよ。要するにあなたがどう言うか見たいんだ、と言われて、仕方がないから長い台詞を身体に入れてやってみた。そしたら確かに自分なりに作っていくリズムがあるんだよね。それでこういうことが俳優さんの中で起こりうるんだ、って分かって、ちょっと勇気がいるけど『狂気の海』でやってみよう、と。実際、田口さんや中原さん、長宗我部さんが喋り出すと、自分では考えつかないような話し方をするんですよ。その中で微調整をしていく。例えば、田口さんなりにキャラクターを解釈してコメディ的にやろうとしている時もあるし、抑えるときもあるから、ここは抑えるほうでいきましょうとこちらから言ったりする訳です。結果的には非常に指示が細かい監督のように端からは見えてしまったらしいんですけど(笑)。決めずにやるっていう自由の中で、自分はヒヤヒヤだったんだけど、そのヒヤヒヤが俳優さんにも負担をかけちゃったんでしょうね。  息を吐いたりするところでうるさいことを言っちゃったんですよね。それは最近の俳優さんに見られる傾向で、台詞を言うときに息を吐いて間をつくるみたいな...僕は昔の役者さんのパキッと言い切る台詞が好きなんで、そこはこだわってしまいました。今の全体の傾向として息を吐いてある種の間合いを作るというのはありますね。

進行:浦井崇や松村浩行といった素人の出演者が高橋さんの監督作『アメリカ刑事』『ソドムの市』に引き続いて『狂気の海』にも出演していますが、こういった素人の演技とプロの演技を混在させていくのはどうだったのでしょうか。

高橋:プロフェッショナルな俳優さんに関しては動けるし、台詞も言えるのでちょっとトーンが違ったり、ニュアンスが違ったときに言うだけですが、浦井たちのことは全く信じていないので(笑)、従来通りのどういうトーンで言うかかっちり決めました。

沖島:浦井の固まった芝居っていうの?なんで固まっているのか分からないにしても(笑)、あれはその人の持っている存在感が出ていていいと思ったよ。

高橋:何なんでしょうかね。基本的に硬い芝居が好きなんですね、僕は。きっと嫌だったらキャスティングしないはずなので、僕はああいう人がいてくれないと落ち着かないんでしょうね。 --沖島さんも別のインタビューでプロは素人っぽく、素人は何とか形になるように演出すると言っていますが。

沖島:今回、阿藤さんをキャスティングしたっていうのもそうだよね。あの人は役者臭が薄い人だから。例えば、大杉蓮さんであれ、柄本明さんだってあの役は演じられる訳だけど、その人が役者として築いてきた個性が漂ってしまうと思うんです。阿藤さんは意外にそういったものが漂わない希有な人で、俳優として役を演じきっているというよりも、どこか舞台というかライブを見ているような感触があるんです。妙に役者臭かったり、新劇っぽさ、アングラ演劇っぽさっていうのがない良さがあってね。母親が出て来て驚くところとか、胸をなでおろすとか、いわゆる定番の演技とでもいうような、かなり狂言廻し的な演技を阿藤さんはしているけれども、そういうことも含めて僕はあの感じが好きなんです。

高橋:一万年前に生きていた人が生々しく登場した訳ではないんですよね。阿藤さんが演じるとその生々しさを捨象された人が出て来たという感じがするんです。(阿藤さん以外の人では)その役者さんの周りにその人が生きている時空が現れてしまうかもしれませんね。

沖島:映画俳優は個性をある程度売りにしないといけない訳だし、そういう人達がいい役者さんと言われている訳で。一方で阿藤さんは中心が旅番組だからね、その良さが出たと思う。あっちゃん(足立正生)なんかも「沖島が演じているみたいで笑っちゃったよ」って言っていたけど、そういう気楽さがいいんだよ。

高橋:少年が「コヤズミは小屋にでも住んでいたんですか」って聞いたときに、阿藤さんが「そいつは知らねえな」って言うときの芝居とかが実に面白いです。

沖島:本当はあれはやっちゃいけないことに抵触しちゃうところなんです。若松(孝二)さんなんかはああいう演技を「内輪受け」といって嫌うんです。つまり、撮っているほうだけで分かっている可笑しさというか、突然役をはみ出て外側に繋がってしまう箇所なのね。だけどね、欲しくなるのよ、やっていると。例えば『したくて、したくて、たまらない、女。』で室田日出男さんが「俺、なんでこんないい目にあわなきゃいけないの」と、役について自己言及しちゃう。『出張』でもゲリラのリーダー役の原田芳雄さんが捕虜になったサラリーマン役の石橋蓮司をつつくところがあるんです。それが如何にも2人が友達だからつついたって感じがあって、役を超えちゃったところがあるんだよ。若松さんなんかはどうしてああいうことをやらせるんだ、って言ったんだけど、僕はそういうところがちょっとくらいあるのが好きなんだね。

高橋:あの演技は阿藤さんが演じるキャラクターの一貫性みたいなものがそこで寸断されてね、阿藤さんなりに作っているキャラクターの外にはみ出ちゃったような気がしたんですね。そういうのを観ると、キャラクターなんて一貫性がなくてもいいんだよ、って思うんです。

進行:沖島さんの作劇に見受けられる寸断だったり、錯綜していくところなどは、高橋さんも『YYK論争』をシネ・エッセイのような形式ととらえたりして、非常に関心をお持ちのようですが、その辺りはいかがでしょうか。

沖島:『一万年、後....。』のシナリオでも印刷台本にも当初は松川新さんが出てくる怪人のくだりだとか、村に流れる警報のシーンとかもなかったの。この新たに書き加えたシーンをボンボンって当初の脚本に強引に突っ込んでいるんです。印刷台本にはないから、コピーでみんなに渡してね。
僕の映画にずっと出ている松川さんに関してはどこかで出してあげないと機嫌が悪くなるだろうなってことで。そういう意味では映画ってデタラメだよね(笑)。

高橋:僕が書くものは、やっぱり娯楽映画の骨格がどうしても強く出てしまうので、作劇が直線的なんですね。縦軸があって、それに沿って物語がどんどん進んでいく。『YYK論争』を見て思ったのは、映画はシネ・エッセイのようにいろんな断章があって、そこに色んな思いが入り込めるんだ、と。  僕の作劇は直線なんだけれど、理に落ちないというか、ちゃんとジャンプしているみたいにしたいと思っているんです。その一方で沖島さんのようにランダムにポコッポコッと話が入ってくる感じは憧れるんですよね。

沖島:これといったセオリーがないですからね。失敗すると目も当てられないですからねぇ。

高橋:僕のように直線的な要素が強い人間がそれをやると、単に困ったから話題を変えたって見られてしまう(笑)。 

(4)につづく