沖島勲 X 高橋洋 対談 (1)_狂気文書_映画:『狂気の海』 | CineBunch

■ 沖島勲 X 高橋洋 対談 (1)

 対談高橋洋 『狂気の海』 脚本/監督
   ×沖島勲 『一万年、後....。』 脚本/監督

kyouki05.jpg名古屋シネマテークで7月26日(土)から8月1日(金)までの公開を控えた『狂気の海』と『一万年、後....。』の両作。(未見の方々のために詳細はつまびらかに語れないのだが...)この二作を並べてみると「消滅に」向けて進む物語と「消滅から」向かってくる物語という逆ベクトルの推進力が交錯し合うトンでもない磁界が劇場に生まれるようである。
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そこは映画の廃墟か墓場か、はたまた未来を指し示す可能性なのか...そんなことはよく分からないが、地下が蠢き、頭上に電波が行き交うその空間に何も知らず足を踏み入れてしまったお客さんはさぞ大変だろう。映画は元来アトラクションではあるが、そこはブラックホールが全てのものを容赦なくアトラクトするような「条件なき」娯楽の漆黒空間なのだから。
世代も資質も違う二人の作り手が今現在、同時代者として映画を作る--それがどのようなことなのか、今から大いに語ってもらおうではないか。
okishima3.jpg 今、映画を作ること

進行:『狂気の海』と『一万年、後....。』が二本立て公開される訳ですが、この二作に共通しているのは「限られた条件のなかでも、大きな物語を語ろうとする意志」とでもいうような作り手の姿勢ではないかと僕は思いました。
高橋さんには既に色んなところで『一万年、後....。』について語っていただいているのですが、沖島さんは『狂気の海』を観て何を考えましたか?
 
沖島:僕はこの作品を二回観たんだけどね、一回目観てこれは傑作だと思いました。
僕はこのあいだ出た『映画芸術』(422号)で若松孝二さんの新作のために松田政男さん、平沢剛さん達と対談したんですよ。
作品を説明するために嫌々だけど「イラク戦争以後」って言葉を出したんです。オウム事件が起ったりした後に作った『YYK論争』(99年)の頃に考えていたような何か時代に対して物を言わなきゃいけないという感じと、また変わってきたように思う。ある意味で時間・空間がバラバラになっちゃった、そんな時代感覚とでも言えばよいのか。まぁ、「液状化」という言い方をする人もいるけどね。そういった時代感覚の変容の中で、どこから始まって、どこに行こうとしているのか、もう"骨格"がなくなってきているような気がする。
そういう状況の中で高橋さんの『狂気の海』について語るときに、高橋さんの原点である子供の頃に見たTV番組や映画といった話をしても面白いんだけど、それよりも今現在の我々の危機感というか...要は次回作が撮れるかっていう「とっかかりのなさ」みたいな部分で、僕の作品や高橋さんの作品を語っていかないと本当の面白みや新しさが上手く言い表せないんじゃないか。これが一つね。
  もう一つは、見終わって嫌な感じがしないのは何故か、ということ。大概、ああいったテーマをやる場合、安っぽい作品だとお客さんにどういう風に刺激を与えるかという発想ばかりが全編に行き渡るんです。どんな作家でも人に見せるというのが前提だから、ある程度は皆やっている訳だし、あまりそういうことをやらない僕ですら観客のことはいつも意識して作っています。ただこのことについては、高橋さんが別のインタビューで言っている「よそよそしさ」という言葉がぴったりきたんですよ。つまりそういう発想で映画を作ったときにまず受けるのは「よそよそしさ」なんです。では何故、高橋さんの作品に「よそよそしさ」を感じなかったのか。高橋さんの作品の中にも奇抜なタイトルの出し方だってある訳だけれども、そういった細部とは別に、高橋さん自身がすごく自問自答しながら作っている、そして自分がまず満足して楽しみながら作っている、それがあるからだと思うんだよ。「よそよそしい」映画ってそれがないんです。その人自身が納得していない作品っていうかね。この違いは微妙かもしれないけど観ていると確かに感じることなんです。高橋さんの作品は、ある意味、奇天烈な話を展開しながら、全く「よそよそしさ」を感じさせない作品になっている。その点で僕は非常に納得して『狂気の海』を観ました。

高橋:僕が「よそよそしさ」と別のインタビューで言ったのは、ハイデガーが森に対して感じたことが、僕にとっては、映画という商品に対する話であれば理解できるということですよね。僕はよく「ジャンル」ということを考えるんですが、僕がリアルタイムで一つのジャンルが機能しなくなっていくのを目の当たりにしたのが「ポルノ映画」だったんですね。80年代に明らかにポルノ映画は失効していったという感じがあって、それは表面的にはアダルトビデオの勃興ということが言われるし、実際そういう面はあったと思うんですけれど、それ以前に劇場にポルノ映画を観に行って、シャワーシーンとかベッドシーンになったときに「別にやんなくていいよ」と思っちゃう自分がいた、と。これが観たくて来てるんじゃないんだよ、って感覚が襲ってくる度に、ああ、一つのジャンルが衰退してゆくってこういうことなんだろうかと、実感として判ったような...そういう体験が強烈にありますね。
  僕はホラー映画にかかわって長いんですが、今、ホラー映画もある意味で衰退してきていると思っているんです。作者の手つきが見えてしまうようになったことがその衰退の兆しですね。つまり、それは「はい、ここで幽霊が出ました」「はい、ここで怖いショットがありますよね」というように観客が望んでいる商品性を満たそうとする作り手の意識や手つきといったものです。それをやればやるほど(かつての僕がポルノ映画に感じたように)観客は引いてゆく。でも、製作委員会やプロデューサーとしても「まさにお客さんから要請されていることをやっているんだから、これでいいはずだ」という根本のところを変更できずに、同じことを繰り返してしまっている。そして気がついたらホラー映画というジャンルが衰退していく、そういう悪循環に陥っていると思うんです。僕がやりたかったのは、もう一回全部根っこから疑って物を作っていったらどうなるんだろう、ということだった。こういう作り手の意識を『YYK論争』を観たときに僕ははっきりと感じたし、だから公開されたときに、誰もまだこの映画に追いついてないと騒いだんです。
  最近、いやもっと前からかもしれませんが、プロデューサーから決まって聞かされるのが「感情移入」という言葉です。この言葉には昔から疑問に感じることがあって、何かの芸術理論をかじった時に知ったんですが、元々は主に美術系の言葉らしいです。作者が彫刻なり絵画なりを作るときに作品に自分の感情を込める、そうするとその作品が作者から込められたものを発信して、それが観る側に届くというものだった、と。つまりベクトルが逆なんですよね。本来「感情移入」と言われているものは作品から観客の側にベクトルが向かっているんですけど、今、プロデューサーが「感情移入させてくれないと困る」とか、あるいは観客が「映画を観てとても感情移入できた」と言っているものはベクトルが観客から作品に向かっているんですよ。作品が観客の気持ちに歩み寄れたかどうか。それは、僕たちの子供の頃の映画体験とはベクトルが逆でしょ?とよくプロデューサーに言うんです。かつては畏怖するものに不意に出会ってしまったかのように撃たれた訳だし、こっちの気持ちが乗せられるかどうかなんて観客が考えている余裕がなかったよね、と。そうするとプロデューサーも「うん、その通りだ。昔の映画はパワフルだった」と同意するんです。それでも「今はそうではないから観客の気持ちが乗せられるように作ってくれ」と言われる訳なんです。つまり、作り方が変わったんだ、と。それでいつも「そういう作り方をしたくないんだ」と揉めてしまう(苦笑)。
  観客はこういうリアクションをしてくれるという分かりきったことをやっていたら、面白いものなんかできっこないし、やっていても楽しくないです。そうではなくて、どうなるか分からないからこそ、やってみるんじゃないか、と考えているんですけどね。

沖島:映画を一つの会社組織として資本を循環させながらやっていくとなると、当然「プログラム」でやっていく訳だよね。プログラムというのは作品の回転率とお金の回転率を合わせていかなければいけないし、会社である以上儲けることが至上命令だから、どうしてもやることが決まってきちゃう。ロマンポルノだって初期は活動屋が何でもありだから好きにやっちゃえ、という勢いで面白い作品が生まれてきたんだろうけど、結局、プログラムとして凝り固まっていって、今度は大奥ものだ、女学生ものだ、とだんだんと訴えるものが希薄になっていく。ただし、資本である以上、どうしたってこうならざるえないでしょう。
  大昔は放っておいても、お客さんが群がるくらい映画館に足を運んでいたから、映画業界も余裕があった訳ですよね。大手五社の社員監督なんて今から思えば実に恵まれた境遇でさ。日活の人達だってそうだったよ。何も仕事しなくたって作家で監督だから、それで給料だけもらえるんだもん。それだけの余力がかつての映画にはあったけれども、今はもうそんなことはできないから、どんどんセコくなって映画を取り巻く状況自体が擦り切れてきているってことじゃないかな。

高橋:プログラム・ピクチャーが番組として堂々と機能していた頃は、作り手は凄くやりやすかったと思いますよ。僕らもVシネマでギリギリそういった体験をできたんですけど、そこでは変な意味で個性に走らなくても良かったんですよね。例えば、よく教育論で言われるケースで、子供たちに向かって「あなたのやりたいことをやりなさい」と言うと、子供達が悪い意味での「個性」という罠に嵌るっていうことがありますが、同じような事態が映画でも起こりうる。それは、自主映画を観ているとまざまざと思い知らされる訳で、別に自主映画は色々あって当たり前なんですが...根っこのところを考えてゆくと、映画は一人の人間の個性で物を作っていたんじゃないですね。
  それこそ「好きなことをやりなさい」と言われたときに思考停止というか前に踏み出せなくなってしまうというのは、とりたてて見つめなくても良い物まで見つめざる得なくなってしまうということだと思うんですけど、現状は映画界も「作家性」という名の個性におんぶに抱っこという感じになっているんですよね。それはもはやジャンル映画が機能しないし、プログラム・ピクチャーもなくなったし、何を作っていいか分からなくなってしまっているから、結局作家の個性頼みになってしまうんです。ただ、それは違うんじゃないか、と。そうじゃないところから物を作っていかないと、かつてあったオーラみたいなものを映画に付与できないだろうと思います。


(2)につづく