『アカイヒト』を語る2(遠山智子)_狂気文書_映画:『狂気の海』 | CineBunch

■ 『アカイヒト』を語る2(遠山智子)

123.jpg『アカイヒト』に関する前の文章に対し、井川さんから3つの質問をいただきました。以下、その返答です。

 

なぜ8mm・白黒で撮ろうと思ったのか、いま思い出す限りでは、いままでやったことがないことをやってみたかったから、だと思います。
ですので、シナリオを書く前から漠然と決めていました。以前、臼井勝さんから8mmカメラをいただいていて、たまにファインダーを覗いては興味を募らせていた、ということもあります。編集・発表は『アカイヒト』以後となった『あいな』という短編を撮った際に8mm・白黒の画面に興味を持ち、その画面とより近づきたい、増幅させたい、という意識を膨らませていたこともきっかけの一つでした。同じカメラで友人の家族を撮ったのですが、これはカラーがメインで、その画面からは、懐かしさ生々しさ高めの人肌といった印象を受けていたので、『アカイヒト』で、主人公が生の希望に触れる一瞬だけカラー、あとの脈々と続く世界は白黒としよう、と決めたきっかけとなりました。

 

 セリフをエスペラント語にした理由ですが、日本語以外の言語で語りたかった、ということです。当時私は、世界各国の言葉で、言葉の数だけ映画を作ったらどうだろうか、と、ぼんやり夢想していたのです。日本語であっても意味が通じないくらいの方言、現在は消えた幻の言語なども、諸々考慮した結果、エスペラント語に決めました。エスペラント語は世界の共通語として整理された人工言語で、世界中に学会はあるようですが、世界共通語としてはまるで機能していない言語です。ちなみに私のふるさとである岩手県出身の宮沢賢治は、エスペラント語を習っていました。小学校の自由研究で宮沢賢治記念館を題材に選んで以降、エスペラント語の存在は、私にとって遠いものではなく、むしろ原点に近いところに据えられていたので、自分にとってこの選択は、特に突飛な発想ということでもありませんでした。また、字幕の文字を画の合間に織り込みたいという欲求もあったと思います。

 

最後に、前の文章に書いた"映画を撮ることは私にとってリハビリのようなもの"との一文について補足説明します。映画を撮るときには、たくさんの人が集まります。あらゆる人が、あらゆる角度から肉をつけていって一つの像を形作らねばなりません。その中で、誰かの存在を生かすよう努めたり、自分の存在を作品とすりあわせたり、数々の選択をしたり、そして全体を通して、人と関わり合い、意思をかよわせる、ということをしていくことになります。そのことはまるで、普段の生活と変わりないように思えるのです。普段の生活を凝縮させたのが映画作りの現場。普段の生活に必要なことを思い出させてくれるのが映画作りの現場。人と関わり合いながら何かを作る。ただ、私が人と関わり合うことに関して疎いほうである、それなのに映画を作ることに自らの必要性を感じている、という点で、映画を撮ることが、私にとっては一つの荒療法、筋トレ、リハビリ、生きる勉強、といった意味合いを今は持っている、ということです。