『空の飴色』を語る(にいやなおゆき)_狂気文書_映画:『狂気の海』 | CineBunch

■ 『空の飴色』を語る(にいやなおゆき)

913da846.jpg『空の飴色』〜物語はどこから来るのか〜

 
  にいやなおゆき
 
「にいやさん、うち今引っ越し中で『赤い激流』見れないんです、録画してくれませんか」という電話がかかってきたのは三年前だった。
浅野学志とはCS仲間であった。あったと過去形になってしまうのは、私のCSアンテナは非情な大家さんによって破壊されてしまったからだ。
いや、単に大家さんがアパートの周りの植木を剪定してて、切られた枝がアンテナの上に落下し、あのパラボラアンテナ(BS、CS加入者の誇りの象徴である)がグチャグチャに潰れてしまった、という事なのだが。 しかしあの頃はよく浅野くんと電話してましたね。『ドリフの大爆笑!』の宇宙船のギャグがどうの、『みなしごハッチ』の今週の話は凄いぞ、とか。まったくなにやってんだか......。しかし、我々のCS談義で最も盛り上がっていたのは、主演・水谷豊、宇津井健  演出・増村保造、國原俊明、瀬川昌治脚本・安本筦二、鴨井達比古、音楽・菊池俊輔らの豪華メンバーによって作られた、大映テレビドラマ『赤い激流』だったのです。
浅野くんの『空の飴色』を観て思ったのは「ああ、これ『赤い激流』じゃん!」でした。
 

 死んだ筈の男、海外から帰って来る謎の女、双子の入れ替わり、ダンスを踊る姉妹、自殺か他殺か?......『赤い激流』や、他の 大映ドラマでおなじみのガジェットが渾然となって、摩訶不思議な世界が作り出されていました。

 

だけど、もちろんこの作品は『赤い』シリーズじゃありません。大映テレビ的ミステリードラマにホラー味をプラスし、独自の表現方法で35分に凝縮した、類のない作品と思います。

 

『空の飴色』は、シナリオもプロットも無く「双子の姉妹を主演に」という漠然とした構想のみで制作されたとの事です。ただ、空港や神社、河原や飛行機の見える土手など、ロケ場所だけは決まっていたそうで。

プロの俳優さんも使えない、セットも組めない低予算(というより無予算に近い)自主映画にとって、ロケ場所こそ最優先事項でしょう。よく「映画はキャラクターだ」と言われますが、こういうミステリートレイン的作り方の場合「映画は風景だ」とも言えると思うんです。いや、どちらが優先という事ではないし、結局両方なくちゃ話にならないんですが。

僕も仲間と即興映画を作ってるんだけど、やはりロケ地で映画の内容が決まって来ます。なんだか地霊が物語を誘導してくれるようで。
先にミステリートレインって書きましたけど、最近はあるのだろうか。昔よく、行き先を伏せて参加者を募集し、電車で出かけるツアーがあったんです。
考えてみれば『赤い激流』もミステリードラマだし、『空の飴色』は作者も出演者も劇中のキャラクターも物語の全貌を知らず、自らにふりかかる事件を目撃し続ける、そんな感じの作品で。ミステリードラマをミステリートレイン的製作体制で作ったとも言えるかもしれません。そもそも『赤い激流』も、共演の緒形拳がスケジュールの都合で後半出演できなくなって、ストーリーが変更になったり、ずいぶん行き当たりばったりで......だからこそ先の読めない不条理な魅力があって、最終回は大映テレビ最高の視聴率37.2%を記録した訳なんだけど。

 
そろそろきちんと『空の飴色』について。
先に書いたようにこの作品、大映テレビ的ミステリー+ホラーだけど、普通の劇映画ではありません。
台詞は無く、ワンカットワンカットが独立しており、それをナレーションが融合させている。それはむしろシネポエム的な作りで、それによって物語の飛躍が可能となり、大映ドラマで半年かかる内容が35分に凝縮されているわけです。
映画はトーキーになった事で現実的リアリティーを手に入れた反面、映像の跳躍力(それによる物語の圧縮、テーマの象徴化、映画独自の無時間性)という面では後退してしまいました。でも、この作品はプロットもシナリオも無い状態で即興撮影されたために、ストーリーの説明と言う呪縛から解き放たれ、作者本人も意識もしていなかっただろうサイレント映画的強さと、深層の物語が浮上して来たのです。
「この場所で、このキャラクター達は何をするのだろう」作者も、出演者もなにも知らずに、その「場」にふさわしい画を全員で念写して行く。なんだか降霊会みたいな事が、撮影現場では起こってたのではないでしょうか。
何度も『赤い激流』という作品を引き合いに出しましたが、『空の飴色』は決して『赤い激流』のパロディーや亜流ではありません。それらは同じ源流から汲み出された古層の物語であり、今の映画やドラマでは描けなくなっている、神話的事件のライブビューだったんじゃないかと。
行き当たりばったりで作られたために、細部の整合性はありません。役者さん達もストーリーもわからず出演してるんで演技になってません。おかしなところは一杯あります。  でも、それがまた夢を見ているような異様なリアリティーになって来る不思議さ......。
今回『空の飴色』をどう語ろうかと色々考えたんですが、どうしても普通の映画に対して考えたり語ったりする言葉が使えない。
普通はキャラクターに関してとか、ストーリーやテーマについて、考えたり語ったり出来るもんなんですけど、この作品、そういうアプローチができないんです。
もしかして、誤解を恐れず言えば、これは「作品」ではないのかもしれません。
「作品」としてパッケージされる以前の、いや、パッケージすらできない物語の原液に、作者も出演者も観客も一緒に浸っているような。
きっと、ポーの『アーサー・ゴードン・ピム』みたいに、どこかでこういう事件は起きてるんですよ。どこかにこういう人たちが居て、こういう事をしてるんだと、僕は思うんです。それは遠い過去かもしれないし、未来かもしれない。夢や映画って、そういう出来事と直リンクできる覗き穴なんじゃないでしょうか。
『空の飴色』は「作品」というより、スクリーンにぽっかり開いた覗き穴なのかもしれません。

 
*エドガー・アラン・ポーが1838年に発表した小説『ナンタケット島生まれのアーサー・ゴードン・ピムの物語』には、奇怪な後日談がある。1884年、ポーの小説と同じく4人の男が海難事故にあった。漂流する彼らはくじ引きで食料となる犠牲者を一人選んだ。彼の名は、リチャード・パーカー、これも小説に書かれていた通りであった。