『さらば、愛しき女よ』について (万田邦敏)_狂気文書_映画:『狂気の海』 | CineBunch

■ 『さらば、愛しき女よ』について (万田邦敏)

SARABA01.JPG風呂場に二人の女性がいる。
ひとりは洗い場に置かれた椅子に腰掛け、上半身を屈めて水の張っていない空のバスタブに首を突っ込んでいる。
もうひとりはその女の後ろに覆いかぶさるようにして立ち、女の髪をシャワーですすいでいる。二人とも着衣のまま。
その様子がごく短い引きと寄りの2カットで示されると、ジャンプカットして、同じ風呂場の中で、シャワーを掛けていた方の女が掛けられていた方の女のうなじをタオルで拭いてやっている。

 

場所が変わって部屋の中。畳に投げ出された女の足と、その脇に座っているもうひとりの女。無造作に投げ出されている足が萎えているということが、直感的にわかる優れた画面。案の定、すぐに座っている方の女が、投げ出されたその足を両手で持ち上げ、タオルの上に移すと、足の主はそれに合わせて腰をずらし、尻をタオルの上に乗せる。下半身不随。再びジャンプして、座っていた女が、投げ出された萎えた足を揉みほぐす。再びジャンプして、足萎えの女が上半身をゆっくり起こし、やや離れた場所にいるもうひとりの女に語りかける。
「ありがとう、姉さん」。
二人が姉妹であることがわかる直接的で簡潔な台詞。妹を振り返った姉は、「ちゃんと拭いてないじゃない」と言って、傍らのタオルを手に取ると、妹のそばににじりより、妹の頭を抱きかかえるようにして髪の毛を優しく拭いてやる。姉が妹の髪を洗い、萎えた足を揉みほぐすことが、この姉妹にとっての日常的な仕草であり、その日常的な仕草をとおして、下半身不随の妹を思いやる姉の優しさと、姉の愛情を素直に頼りに思う妹の気持ちが、ジャンプカットを含めた簡潔で的確な演出と、抑制の効いた芝居によって表現されたというわけか、と感心している間もなく、姉に頭を抱えられるようにして髪の毛を優しく拭かれていた妹がぽつりと言う。「姉さん、男の人の匂いがする」。
不吉な響きだ。妹はさらに言う。「恋人ができたのね」。姉は妹の髪を拭く手の動きを止めることなく、しかしふと頭を下げて自分の服の匂いを嗅ぐ。
姉の動きを察した妹がすかさず、「嘘。匂いなんてしない」と言って姉の顔を見上げると、間髪おかずに「紹介してくれるでしょ」とたたみ掛ける。妹の鋭い勘が、姉に恋人ができたことを文字通り「嗅ぎ」当て、「男の匂いがする」と罠を仕掛け、姉はその罠にまんまとはまってしまったのだ。
妹思いの姉と姉思いの妹と見えたふたりの関係が、そう思わせた同じ動作を続けたまま、「匂い」と「嘘」よって一変し、互いのねじれ曲がった悪意と欲望が浮上する見事な瞬間だ。「紹介してくれるでしょ」と言われた後の、無言で妹を見返す姉の表情もすごい。
その後姉妹の関係は、姉の恋人を交えた3人での草の上の昼食、姉の恋人と妹との自転車の二人乗り、姉妹の部屋での3人の夕食、そして再び姉妹のシャワーシーンと、たったそれだけの、しかも引き続き簡潔で的確な、本質を突いた演出と画面の構成によって示される、強者と弱者、美しいものと醜いもの、優越感と劣等感の、攻守が瞬時に入れ替わる緊張感とサスペンスの持続の只中で、唐突に破局を迎える。
姉が去った後に静かに閉まるドアは、『悪魔のいけにえ』のドアに勝るとも劣らない記憶に残るべき「映画」のドアだ。見終わってみればわずかに10分弱。
長島良江は、「シネ砦」で見せた200字批評の密度の濃さを、短編ビデオで、すでに実現していたのである。

 
※シネ砦......映画美学校研究科安井ゼミで発行している機関誌