「何よりも重要な学習は了解すること」だと語られている通り、私たちもこの作品に対して「間違った早のみこみ」をしないように充分気をつけなければならない。
それには最後までしっかりと目を開き、耳を傾けなければならない。
この映画に教訓があるならば、まさにそれに尽きる。
見る=聞くすべを知らぬ者には同じ映画が三本繰り返されているように見える、人を喰ったような『YESMAN / NOMAN / MORE YESMAN』だが、注意してみれば、そこには微妙だが決定的な差異が存在することにいやでも気づかざるを得ない。この映画で語られるのは、二つの前提と三つの帰結である。
つまり教師たち一行が山越えに出るは、『YESMAN』と『NOMAN』においては研究旅行のためだが、『MORE YESMAN』においては「厄病」から人々を救うためなのだ。
もはや緊急事態なのだ。ぐずぐずしてはいられない。
『丹下左膳・百万両の壷』(山中貞雄)の壷を抱えた孤児をどこか思わせる少年が、深い了解の後に再び谷に投げ込まれることを自ら望むのはこのためである。 この映画で『MORE YESMAN』と名づけられたパートは、ブレヒトの原作戯曲では『YESMAN』の第二稿にあたるものである。
『YESMAN』初稿の反応に基づいて、第二稿と『NOMAN』を書き上げたブレヒトは、後者ふたつがセットで上演されることを想定していた。したがってこの映画のように三本順番で上映することは本来問題を含んでいる。
間違った掟を変革し、新しい掟を打ち立てようという『NOMAN』の結論もブレヒト的である。しかし松村浩行はこの順番に並べることである種、弁証法的なドラマを構築し、自らの署名を刻印する。
つまりこれはブレヒトの戯曲の映画化なのではなく、あくまで松村浩行の映画なのだ。これをブレヒトの精神に対する裏切りとする見方もあるだろうが、そもそも裏切りなき創造行為などあるのだろうか。
固定ショットや同軸上の繋ぎなどを基調とする古典的デクパージュによって、人はそこにある種の「ゆるぎなさ」を感じるだろうが、この映画作家が単なる古典派ではないことは、決定的な瞬間に現われ、見る者をハッとさせるジャンプ・カットを見れば明らかだろう。
そして『MORE YESMAN』で母子を結ぶ「赤」や、前提状況の決定的な変化を一瞬にして知らせる雲間に隠れる太陽のショットなど見るべきところは多い。しかし少年から弟子たちに最後に托された壷のように、この映画を托された私たちがこの後、何をすべきかが重要なのであり、それこそがまさにブレヒト的なのである。
(オトコとオンナの映画秘湯 美学校映画傑作選 〜第一弾<栄光の名作を見ずして年が越せるか!>篇〜(29/12/05)パンフレットより転載)