日本の能曲「谷行」を読んだブレヒトは、それを大胆に翻案した戯曲「イエスマン」を書いた。ある村で、先生とその弟子たちが山越えの研究旅行に出ようとしている。
一人の少年が、母親の病気を治す薬を求め、周囲の反対を押し切ってその危険な旅に参加するかしその途上、少年は病にかかって先に進めなくなる。
先生と弟子たちは少年をどうしたものかと思案するのだが、その村には恐ろしい「しきたり」が伝わっていた。すなわち、旅の途中で病気にかかった者は谷に投げ込まねばならない。と同時に、そのことについて病人にも意見を求めなければならないが、しかし病人は必ず「了解」といわねばならない...。
かくして少年は弟子たちによって谷に投げ落とされる。 この戯曲はクルト・ヴァイルの音楽を伴い上演される。
そして劇を観たカール・マルクス学校の生徒たちによる討論から、様々な意見が出てくる。そしてブレヒトをもっとも動かしたのは、たとえばこのような素朴な感想だったのだろう、「このしきたり、どうも正しいものだと思えない」 そこでブレヒトは「ノーマン」に取りかかる。
その結末で、少年は「了解」と答える代わりに、先生と弟子たちを相手に「新しいしきたり」を提案する。すなわち、新しい状況に応じて、新しく考え直すことを。
結果、少年は谷に投げ落とされることなく、弟子たちによって村へと連れ戻されるのだ。 けれども、こうして出来上がった対のような二篇が、いま知られている『イエスマン ノーマン』ではない。
その後ブレヒトは再び「イエスマン」に立ち返るのだが、改作のポイントは、どのような状況下であれば少年にイエスといわせることが出来るか、だった。初稿「イエスマン」そして「ノーマン」ではたんなる研究旅行であった山越えの旅が、改稿版「イエスマン」においては村ぜんたいの生命が賭された、緊急の旅となり、一行が少年を谷に投げ落とさざるを得ないと判断するのも、神話的なしきたりがそう命じているからではなく、実際に少年を担いで狭い尾根を渡ってみた上で、やはりそれが不可能であるという実証的な結論に達したからだ。
つまりブレヒトは物語の合理化・啓蒙化を徹底させたのだった。
ブレヒトが認めた『イエスマン ノーマン』とは、この改稿版「イエスマン」と「ノーマン」の組み合わせである。
世界観のまったく異なった二つの作品が連作として並べられているという、じつに奇妙なことが起こっているのだが、『イエスマン ノーマン』という作品を読んだことがある人でも、そこに気を留める人は案外多くないのかも知れない。人が何かものをいう時には、つねに社会的なコンテクストに規定されているという、何度でも確かめねばならない大切な真実こそが、このいびつなカップリングに込められているように思うのだが...。
僕がこの映画の構成を考えた時、ブレヒトがこの連作を書き継いでいった通りに並べてみようと思った。つまり、公式のものではない初稿「イエスマン」から始め、「ノーマン」、改稿版「イエスマン」という時系列に従って。そうすることで、ブレヒトの「弁証法的」歩みを辿り直すことが出来るのじゃないか、そしてその先には、書かれざる改稿版「ノーマン」が見えてくるのじゃないかと思ったのだ。 ブレヒトは「ノーマン」の改稿版を書かなかった。
既存のしきたりに追従することを拒み、新しいしきたりを提案する進歩的な少年を、共同体ぜんたいの生命が危機に曝されているようなシビアな状況に投げ込んでみて、その時、いったいかれがどのような選択をするのか。現代的なmeismの主題とも深く関わるはずの、改稿版「ノーマン」のあり得べき可能性を考えることこそおもしろいと、撮影前にお会いした時、岩淵先生もおっしゃっていた。
しかし、僕は自分の頭だけで改稿版「ノーマン」、すなわち「MORE NOMAN」を考え出すことにまったく興味がなかった。改稿版「ノーマン」をめぐっての僕の興味は、かつて初稿「イエスマン」の上演を観たカール・マルクス学校の生徒たちがしたような討論を現在の同年代の子供たちが再びおこなうこと、そしてそのプロセスを映画的に記録することだった。さらにその討論を通じて形成されたあるひとつの(多分に暫定的な)コンセンサスをもとに、もう一度劇化=映画化することだった。
映画『YESMAN / NOMAN / MORE YESMAN』はそのためのスプリングボードとして構想され、つくられたのだった。しかし未だその跳躍を試みることが出来ずにいる。それを踏み止まらせているものが何なのかはわからないが、いまはまだその時ではないという思いが確かにある。そしてどこからか、「われわれはシェイクスピアを変えられる。もしわれわれがシェイクスピアを変えられるなら」というブレヒト自身の言葉が執拗にコダマする...。
ブレヒトの『イエスマン ノーマン』は作者によって認定された以上、完結しているわけだが、この映画は未完結である。
(続く)